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2038231#37 | 飛騨川流域一貫開発計画 | ダムが全閉操作を行ってから満水になるまでは30分しか時間の余裕が無かったため、操作は反復して行われた。その30分間に海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊と陸上自衛隊豊川駐屯地施設大隊によって残る1台が引き揚げられた。しかし乗客のほとんどは下流に流されていたため、今度は下流にある川辺ダムの全放流操作を1937年の完成以来初めて実施、ダム湖である飛水湖を空にして捜索活動を支援した。大正時代より飛騨川の開発に携わり地形や水文データが蓄積していることが、このような異例の放流操作を行えた要因となっている。なお、事故地点付近に建立された慰霊碑・「天心白菊の塔」は、上麻生発電所職員による清掃活動が月例奉仕として現在も続けられている。 |
2038231#38 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川流域一貫開発計画において建設された発電所やダムは多数に上るが、建設に伴う地元住民との補償問題の解決は避けて通れない課題であった。ダム建設によって故郷が水没する住民への一般補償、漁業が盛んな飛騨川の漁業補償、発電所の取水と灌漑用水取水との整合性が問題となった農業補償など、幾つもの補償案件が山積しており、その解決には相応の努力が必要であった。計画進行による住民の犠牲は、こうした大規模河川開発における最大の問題となっている。 |
2038231#39 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川流域のダム開発において、住民の移転を伴う一般補償が実施されたのは川辺発電所・ダムの23戸が最初である。下表は発電所・ダム建設によって移転を余儀なくされた住民の戸数である。
川辺ダムについては当時は東邦電力が施工しており、電力開発の国家的重要性を説いて最終的には円満解決されたと『飛騨川 流域の文化と電力』で述べられているが、詳細は不明である。戦後最初の補償案件となったのは朝日発電所と朝日ダム・秋神ダムにおける一般補償であり、両ダム合計で66戸水没することになった。当初は朝日村や久々野町といった関係自治体はダム建設を歓迎、朝日ダムに水没する地区住民も概ねダム建設は否定的ではなかったが、1951年に発電効率向上のため高さを一律12メートル高くすると発表したところ、当初の水没戸数24戸に加え42戸が新たに水没するため住民は挙って反発、当初融和的だった朝日村や久々野町もダム建設に否定的な姿勢を見せ、補償交渉は深夜に及んだ。最終的には日下部禮一高山市長や飛騨選出の前田義雄岐阜県議会議員、高山商工会議所が代替地を斡旋することで解決した。 |
2038231#40 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 東上田発電所・ダムでは当時田子倉ダム補償事件を始めダム補償交渉において高額の補償金妥結が報道されていたこともあり、住民は高額の補償金を要求。一時は事業者の中部電力が発電所建設を断念して大井川水系の開発に軸足を移そうとするなど決裂寸前に至った。この時期は水源地域対策特別措置法などの水没住民に対する法整備が未熟だったこともあり、岐阜県当局や周辺市町村の斡旋により解決が図られるケースが多かった。高根第一・第二発電所と高根第一・第二ダムの補償交渉では1963年に閣議決定された「電源開発等に伴う損失補償基準」が策定されたことから基準に沿った補償交渉が実施されたが、高根第一・第二については多額の補償金受け取りによる住民の生活基盤崩壊を防ぐため現金に代わり社債を提供して堅実な資金運用を提案、水没する69戸のうち64戸が応じている。 |
2038231#41 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 馬瀬川第一発電所・岩屋ダムでは水没戸数が157戸と多数に上り、補償交渉を担当した中部電力と地元住民の間で水没見舞金の支給を巡り当初は激しい対立があった。しかし岐阜県が水没見舞金の呈示に前向きな姿勢を示した段階から住民の態度も軟化。岐阜県・益田郡金山町(現在の下呂市)長の斡旋、また水没はしないがダム建設によって地域から地理的に孤立する少数残存者補償を受け入れるなど事業者側も譲歩したため、住民側も事業者側の提示する補償基準に合意。水没住民の移転を含め大規模なダムとしては異例の3年目で交渉が妥結している。ダム規模が同等で当時激しい反対運動により事業が長期化していた八ッ場ダム(吾妻川)、大滝ダム(紀の川)、川辺川ダム(川辺川)などと比べほぼ円満な解決であり、水没予定地にはダム反対運動によく見られる「ダム反対」の看板や幟が全くみられなかったという。 |
2038231#42 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 一般補償については水源地域対策特別措置法といった法整備がない状態であったが、基本的には流域自治体が電力開発に理解を示し交渉妥結のために様々な斡旋を行ったことが、頑強な反対運動にまで発展しなかった理由である。一方公共補償については報奨金という名目で学校や消防施設、医療機関の建設や道路・上下水道の整備などが中部電力の負担で実施され、特に道路については劣悪だった道路事情の改善に寄与している。またダムや発電所建設に伴う固定資産税収入は自治体の財政において無視できない位置を占め、1974年(昭和49年)には電源三法(電源開発促進税法・発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進対策特別会計法)が施行され、特に発電用施設周辺地域整備法については完成して年月の経過した発電所も対象になることから自治体の公共事業整備に役立っている。 |
2038231#43 | 飛騨川流域一貫開発計画 | その反面、多くの住民が移転したことにより過疎化が進行、旧朝日村では60戸300名が高山市などに移転したため急激に人口が減少、旧高根村では人口の16.5パーセント、世帯数の16パーセントに当たる65戸350名がやはり高山市などに移転し過疎化に拍車を掛け、旧金山町では152戸836名、旧馬瀬村では特に下山地区が25戸155名の集落全体が関市などへ移転。これらの地域では深刻な過疎化を招いている。 |
2038231#44 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川は流域のほとんどを山地で占めているが、植生は良好で水源涵養(かんよう)も保持されていた。これが水生昆虫や藻類の繁殖を促し、さらに魚類が棲息するという好循環を生み出していた。飛騨川や支流の馬瀬川はアユ釣りが特に盛んなほか、イワナ、アマゴ、ウナギ、コイなど豊富な漁業資源を有する河川であった。しかし水力発電所、特にダムを建設することでアユなどの遡上する魚類が深刻な影響を受けるほか、工事中の濁水で河川環境が悪化するなど漁業で生計を立てる関係者にとっては死活問題であり、日本各地のダム開発では漁業権を保有する漁業協同組合との漁業補償交渉が特に困難を極めていた。 |
2038231#45 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川でも例に漏れず、漁業補償は一般補償に比べはるかに交渉が難航した。日本電力や東邦電力が競って開発を行っていた大正時代は飛騨川に漁業協同組合は存在せず、またダム自体の高さが低く抑えられていた。さらに岐阜県当局がダム建設を許可する条件として魚道の設置を義務付けていたため、上麻生・七宗・大船渡などのダムには魚道が設置され、魚類の遡上には支障を来たしていなかった。しかし戦後に入ると小坂ダムを境に上流を益田川上流漁業協同組合、下流を益田川漁業協同組合、最下流部を飛騨川漁業協同組合が第五種共同漁業免許を取得して漁業権を管理。馬瀬川でも馬瀬川上流・下流漁業協同組合が漁業権を管理しており、漁業資源が衰微するダム・発電所建設には頑強に反対した。特に戦後のダム建設は朝日ダムなど魚道の設置が物理的に不可能なハイダムを多く建設していたことから、より解決が困難になっていた。 |
2038231#46 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 朝日ダムから始まった漁業補償交渉は、魚道の設置可否を巡り意見が対立。最終的に魚道を設けない代わりに東上田ダムでは漁業資源保護のための河川維持放流を行い、また益田郡萩原町(現在の下呂市)に岐阜県水産試験場を大垣市から誘致し養殖を促進するなど対策を行って妥結した。しかし1965年7月飛騨川流域を集中豪雨が襲い、朝日ダムに合流する渓谷でがけ崩れが多発。それが原因で濁水が流れ込み数年にわたって飛騨川が濁る朝日ダム濁水問題が発生した。 |
2038231#47 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川の濁水は年を追っても一向に解決する気配を見せず、朝日ダムの放流と高根第一ダムのコンクリート骨材採取に原因を求めた益田川漁業協同組合は濁水解決を中部電力に対して強硬に主張。濁水が飛騨川バス転落事故捜索を困難にさせている一因であると世論に訴え、中部電力が補償に応じなければ高根第一ダム工事現場に実力行使を以って工事を停止させるとまで強硬な姿勢を取った。飛騨川流域の町村長・町村議会議長、下呂温泉を始めとする町村観光協会なども漁協の主張に同意し、1966年飛騨川公害対策協議会が設置され濁水問題は公害問題に発展する気配を見せた。さらには岐阜県公害対策協議会・岐阜県議会公害対策特別委員会が設けられる事態に発展し、政治問題となった。濁水問題への反発が高まりダムを管理する中部電力は小坂発電所増設、高根第一・第二発電所の工事、さらには馬瀬川第一・第二発電所計画が遅延、飛騨川流域一貫開発計画は停滞する。最終的には事態を重く見た岐阜県当局が仲裁に乗り出し、県の斡旋案で収拾させるに至った。中部電力は朝日ダムに表面取水設備を設置し、比較的清浄な貯水池上層の水を放流することで飛騨川の濁水を解消する対策を取るほか、上流発電所群の運用改善と東上田ダムの放流水を15ppm以下に抑える、秋神貯水池の清浄な水を朝日貯水池に導水し濁水軽減を図るなどの恒久対策を行うことで1972年(昭和47年)3月、岐阜県庁公害対策事務局との協定締結により一連の問題は発生から6年目で解決した。 |
2038231#48 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 岩屋ダムを始めとする馬瀬川第一・第二発電所では長良川と並ぶアユの宝庫であった馬瀬川にダムを建設することに馬瀬川上流・下流の漁業協同組合が反発。特に下流漁協は瀬戸第二発電所の取水元である西村・弓掛ダムの撤去を求めるなど強硬な姿勢を取った。この件も岐阜県が仲裁に入り両ダムに魚道を新設する、またアユ養殖施設を新設するなどの条件で妥結した。中呂発電所では度重なるダム・発電所建設で漁場が縮小に次ぐ縮小を受けた益田川漁業協同組合が反対、交渉妥結に3年を費やしている。下表は漁業補償交渉において中部電力が各漁協に支払った補償金の一覧表である。 |
2038231#49 | 飛騨川流域一貫開発計画 | このように漁業補償は難航を極めた。漁協としては水力発電所やダム建設により生業である漁場が繰り返し失われるため、将来の生活に不安を覚えたための反対運動であったが、電力開発の重要性も認識していたため最終的には苦渋の決断を行っている。飛騨川は多数のダムが建設されたことで回遊魚の遡上が只見川などと同様に絶望的になったが、一方で陸封魚となったアマゴなどが巨大化しており、秋神貯水池などでは新たな漁業資源となっている。飛騨川の水質管理については朝日ダム濁水問題の教訓として高根第一ダムなどにも選択取水設備を設置、濁水防止対策を講じている。2006年(平成18年)7月の洪水においてその効果は発揮され、財団法人ダム水源地環境整備センターより「ダム・堰危機管理業務顕彰奨励賞」を受賞している。 |
2038231#50 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 農業に関連する補償としてはダム建設に伴う農地水没に対する補償、特産品栽培に対する補償、慣行水利権に対する補償の3種類が飛騨川流域の水力発電事業では見られた。ここでは後二者について解説する。 |
2038231#51 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 特産品補償については朝日ダムと高根第一ダムにおいて見られた。当時朝日村と高根村ではワラビの根からワラビ粉を生産しており、高根村では特産品として多額の収入を上げており生活基盤の一つであった。しかしダム建設に伴い移転する住民の中には、ワラビ粉の生産が不可能になるため収入の途が閉ざされる。このため減収に対する補償が求められ、生活再建の一環として補償が転出住民に行われた。 |
2038231#52 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 一方慣行水利権に対する補償は、主に農業用水の取水がダムや発電所の建設によって取水量が減少し、十分な灌漑が行われなくなることに対する補償である。これは戦前・戦後を問わず、発電所建設時に水利権を取得する際に交付される水利使用許可命令書、あるいは水利使用規則においてこれら慣行水利権の使用に支障を来たさないようにしなければならないと定められているためであり、農業保護対策として水利権使用の許認可権を持つ河川管理者が特に注文していた。 |
2038231#53 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川の水力発電開発の場合、瀬戸第二発電所や朝日発電所、久々野発電所、小坂発電所において頭首工の新設や取水堰からの河川維持放流によって慣行水利権分の流量を維持する対策が取られており、多目的ダムや治水ダムにおける目的の一つ不特定利水が事実上実施されている。馬瀬川第二発電所では発電用水利権により取水される水で農業用水の取水に支障を来たすことから新たに揚水施設を建設した。東上田発電所では流域の旧萩原町が丘陵地に農地が多く営まれているため、ダム建設に伴う取水量減少に不安を持つ土地改良区が反対していた。またダムから発電所へ導水するためのトンネル工事で水脈を掘ったことから、渓流が枯渇したり水が少なくなることで農業用水11件、800戸の水道供給に被害を与えた。このため補償費支払いのほか頭首工の新設、簡易水道整備などの対策を実施している。 |
2038231#54 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 流木に対する補償は主に戦前の一時期に見られた補償形態であり、戦後は佐久間ダム(天竜川)や長安口ダム(那賀川)など少数に留まり現在は実施されていない。飛騨川流域の山林は江戸時代は加茂郡の一部が尾張藩の領地として、明治時代は皇室御料林として管理される美林であった。その総面積は20万ヘクタールにも及び、ヒノキ、スギ、モミなどが生育するため江戸時代以降林業が盛んになった。当時の飛騨川流域は険阻な峡谷のため道らしい道は存在せず、木材を名古屋方面に運搬するには専ら流木による輸送が行われていた。流れた木材は現在の加茂郡七宗町下麻生にていかだに組みなおされ、木曽川を下って名古屋へ輸送された。こうした流木が行われるのは洪水期を避ける意味から水量の少ない冬季に行われるが、往々にして急流河川で流木は実施されていたことから、急流河川で好んで行われた水力発電開発が流木を途絶させるため流木業者との相性は悪かった。しかも流木が盛んに行われる冬季は水が少ないため、水力発電所は水量を確保するために特に取水を強化する時期であり、水量が少なくなって流木が支障を来たすことで流木業者の不満は高まる一方であった。 |
2038231#55 | 飛騨川流域一貫開発計画 | これらの理由で電力会社と流木業者の紛争はしばしば激しいものとなった。特に知られているのが、庄川において浅野総一郎率いる庄川水力電気と飛州木材が、小牧ダム建設と慣行流木権の有無を巡り長期にわたって法廷闘争にまで発展した庄川流木事件である。この庄川流木事件に先んじ、飛州木材は飛騨川においても日本電力との間で慣行流木権を巡り激烈な紛争を1920年から1924年まで繰り広げていた。これを益田川流木事件と呼ぶ。契機となったのは日本電力が瀬戸第一発電所を建設する際に、河川管理者である岐阜県知事から流木権保全のため冬季の流木シーズンには毎秒400立方尺の放流義務を許可条件としたことに始まる。しかしこれを行うと冬季の取水量は激減し発電能力は最大で2万7000キロワットの能力がわずか2,000キロワット弱に低下し、発電所として用を成さなくなる。このため発電所に導水する導水路を流木用水路と兼用させ、発電能力の維持を図る折衷案を県知事に提示し、許可を受けた。ところが飛騨川の流木を一手に引き受けていた飛州木材は当初の条件を遵守するよう強硬に異議を申立て、折衷案を是とする日本電力との間で激しい対立を招き、瀬戸ダムに貯留した木材の流下を促すためのゲートの開放を巡り両者が一触即発の衝突寸前にまで至った。 |
2038231#56 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 事態を重視した岐阜県は県議会議長を仲介役として調停に入り、木材輸送に関する輸送期間の遵守と流木従事者への賃金負担、輸送期間を超過した場合の損失補てんを盛り込んだ覚書を飛州木材と交わし、代わりに折衷案を飛州木材は認めることで合意が図られ、4年間に及ぶ紛争は解決した。この益田川流木事件以降、流木権維持のためダムには魚道の流木版である流木路を設けて流木を円滑にさせることが絶対条件となり、川辺ダム建設までは流木路や舟運確保のためのレール敷設が行われた。しかし1934年(昭和9年)10月25日に高山本線が岐阜駅と高山駅間で全通したことで木材輸送は一挙に鉄道輸送に切り替えられ、流木による木材輸送は衰退。戦後は全く見られなくなりダムや発電所建設において流木補償を行う必要性はなくなった。 |
2038231#57 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 飛騨川流域に建設されたダムは発電に利用されているだけではなく、地域のレジャーにも利用されている。特に川辺ダムについては穏やかな水面がボート競技に適しており、1970年に岐阜県川辺漕艇場が人造湖である飛水湖に設けられた。日本ボート協会が認定する国際A級ボートコースに認定されており、インターハイなど多くの大会が開催される日本有数のコースで、2012年(平成24年)開催予定の岐阜国体のボート競技会場に決定している。また観光の面ではダムや発電所の半数以上が、現在の下呂市金山町に集中していることから旧金山町では「ダムの町」として観光の一つに挙げていた。またアユやアマゴなどが高根第一ダムの人造湖である高根乗鞍湖や岩屋ダムの人造湖である東仙峡金山湖などの人造湖で釣ることができる。下原ダムは左岸を高山本線が通過するが、ダム建設に際し線路が水没するため新たに鉄橋を設けた。この下原ダム湖を渡る鉄橋は高山本線における撮影スポットの一つとして知られ、休日には鉄道ファンが撮影のために訪れている。国道41号や国道361号沿いからは建設されたダムの多くを容易に望むことが可能である。 |
2038231#58 | 飛騨川流域一貫開発計画 | しかし飛騨川流域のダムはほとんどが管理上の理由で、水資源機構が管理している岩屋ダムとダムの天端(てんば)が生活用道路として利用される瀬戸ダム、七宗ダム、大船渡ダム、馬瀬川第二ダム以外は一般人の立入が厳しく規制されている。発電所は中部電力の許可を得ない限り全て立入禁止である。かつては高根第一ダムも立ち入りが可能であり、冬から春に掛けては雪を被った乗鞍岳を正面に望むことが出来たが、発電所・ダムの無人管理が実施されて以降は立入禁止となった。国土交通省や水資源機構、各地方自治体が積極的にダムを観光資源として開放しているのとは対照的で、国土交通省直轄ダムのほか都道府県営ダムや電力会社管理ダムなども発行を開始したトレーディングカードであるダムカードも、飛騨川流域では岩屋ダムしか発行していない。 |
2038231#59 | 飛騨川流域一貫開発計画 | 1911年の関西電力発起人による瀬戸第一発電所など4発電所の水利権申請に始まる飛騨川流域の水力発電開発は、戦後飛騨川流域一貫開発計画として大規模に展開され、1987年の新上麻生発電所の運転開始まで76年間、新規の水力発電事業が続けられた。ここでは年表形式で開発の歴史を記す。 |
2045212#0 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 本稿では1865年から1918年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この期間は南北戦争の後のレコンストラクションに始まり、工業化が進展した時代だった。社会と労働力の急激な変化が多くの労働組合を生み、ストライキが何度も行われた。
南北戦争が終わったとき、アメリカ合衆国は分裂したままだった。レコンストラクションとその失敗により、南部の白人は黒人たちに対する支配関係を続け、その公民権を否定し、経済、社会、および政治の分野では第2の階級にしておいた。 |
2045212#1 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | ヨーロッパを中心とする他の大陸からは1840年から1920年までに3,700万人という前例の無いような移民の波が訪れ、安い工場労働力を提供し、カリフォルニア州のようなまだ開発が進んでいなかった地域に多様な地域社会を形成した。工業の発展と人口の拡大は少なからぬ犠牲も発生させた。大抵のインディアン部族は小さな居留地に押し込められ、白人の農園主や牧場主がその土地を手に入れた。工場における労働者の虐待が暴力を伴う労働運動を生むようになった。工業における虐待慣習によって労働運動は暴力的な様相を示すようになった。 |
2045212#2 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | この期間、国内では人口増加と工業の成長、海外では多くの帝国主義的事業により、アメリカ合衆国は国際社会における力を高め始めた。19世紀が終わる頃までにアメリカ合衆国は、新しい技術(電信や製鉄のベッセマー法など)に基づいて世界でも先進的な工業国になり、鉄道網を国中に張り巡らし、豊富な天然資源を使って第二次産業革命の先駆者となった。
19世紀末、アメリカ合衆国はキューバを征服して、スペインの支配から事実上アメリカの支配下に置き、ハワイとプエルトリコを併合した。米西戦争の終わりにはフィリピンを獲得し、人民数十万人を殺害してその独立運動を抑圧し、フィリピン諸島の近代化を進めて、特に数十万人を殺した伝染病の流行を止めるために公衆衛生を改善した。
第一次世界大戦では、アメリカ合衆国はかなり遅く1917年に連合国側で参戦し、戦争の行き詰まりを打開したことで、アメリカは軍事大国かつ経済大国になった、 |
2045212#3 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | レコンストラクションは南北戦争の後の時代を指し、敗れたアメリカ連合国に所属していた南部諸州が再度アメリカ合衆国の中に統合された。解放奴隷に公民権を確立しようという試みが、南部白人の間に連邦政府に向けた長びく敵意を生じさせた。
エイブラハム・リンカーン大統領は暗殺される前に中庸的なレコンストラクション計画を認めていた。しかし、戦争期間の莫大な人的犠牲とそれによる社会的変動によって、アメリカ合衆国議会は解放奴隷の保護を含めまず必須条件を課すこと無くしては反逆を起こした州の再加盟に抵抗することになった。リンカーンのその後長続きした遺産には、反逆州における奴隷を解放する1863年の奴隷解放宣言と、元奴隷を教育し、健康管理と雇用を促す1865年3月設立の解放奴隷局があった。アメリカ合衆国憲法修正第13条が1865年12月に批准され、アメリカ合衆国全てで年季を定めた隷属が違法とされた。リンカーンの後継者であるアンドリュー・ジョンソンが議会で多数派である共和党の意志に対して頑迷に抵抗したことは、「議会のレコンストラクション」あるいは「急進派レコンストラクション」と呼ばれるものに繋がった。1866年から1868年、議会は一連のレコンストラクション法を成立させて南部州が再加盟する条件と手続を定め、1866年の公民権法ではあらゆる人々に白人と同じ市民権を与えた。
レコンストラクションの下で、解放奴隷、スキャラワグおよびカーペットバッガーと共和党が連衡して南部州政府を支配し、アフリカ系アメリカ人に市民権を与えるアメリカ合衆国憲法修正第14条を批准した。これらの政府は鉄道や公立学校を建設するために重い借金を抱え、税率を上げたので次第に激しい抵抗に合うようになり、その結果スキャラワグの大半が民主党に移った。ユリシーズ・グラント大統領はサウスカロライナ州、ミシシッピ州およびルイジアナ州でアフリカ系アメリカ人に対する公民権保護を強制した。1870年にアメリカ合衆国憲法修正第15条が批准されてアフリカ系アメリカ人に選挙権を与えた。1875年公民権法が成立して、人種や以前の隷属関係に関係なく、人々が公的施設を利用する権利を保障した。
レコンストラクションは州によって異なる期間続いた。最後は1876年アメリカ合衆国大統領選挙で共和党のラザフォード・ヘイズが接戦の末に対抗馬民主党のサミュエル・ティルデンを破った時だった。選挙人投票結果について異論が続出し、議会は選挙管理委員会を設けてその収拾を図った。委員会の裁定は論争のあった票を全てヘイズに与えることになったが、この決着の影にいわゆる「1877年妥協」があり、南部白人は当時共和党が支配しておりレコンストラクションの終わっていない南部3州での軍事支配をヘイズが終わらせる提案をしたことを知って委員会裁定を黙認した。レコンストラクションそのものは、北部白人が南北戦争の終結と南部白人から国家に対する脅威が無くなったことを認めたことで終結した。
レコンストラクションの終わりは、まだ南部での人口が多かったアフリカ系アメリカ人にとって公民権と市民としての自由というものが信じられた短い期間の終わりでもあった。しかし、人種差別はレコンストラクションの行われた南部のみならず、国中至る所で見出された。白人至上主義者がジム・クロウ法を通じて差別された社会を創りだし、南部の白人特権階級(リディーマー、ブルボン民主党の南部会派)が「ソリッド・サウス」と呼ばれる圧倒的な民主党支配下で確固たる政治と経済の支配力を確保した。田園地帯では地方の法律執行力が弱く、激怒した暴徒が黒人の犯罪容疑者をリンチすることを許した。 |
2045212#4 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカ合衆国西部の平原や山岳地に鉱山師、牧場主および農場開拓者などが進出していったことで、そこに先住していたインディアンとの紛争が拡大した。連邦政府はインディアンたちに割り当てられた居留地に留まらせることを主張し、そこに留めておくために力を用いた。1880年代に暴力沙汰は減っていき、事実上1890年で止んだ。1880年までに狩猟経済の基盤だったバッファローの群れは消失していた。白人の社会改革者たちは迅速にインディアンをアメリカ社会の中に同化することを望み、ペンシルベニア州カーライルのカーライル・インディアン工業学校のような訓練計画や学校を設定した。この中から多くの著名な指導者が育った。しかし同化に反対する勢力は抵抗した。 |
2045212#5 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1876年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラック・ヒルズを通り過ぎた時に最後の重大なスー族戦争が起こった。アメリカ軍はスー族(ラコタ派)の狩猟場に鉱山師が入らないように手配することを怠った。この地域で狩りをしているスー族に対し行動を取るよう命令が出たとき、条約の取り決めに従って軍隊は活発に動いた。幾つかの決着の着かない遭遇の後で、ジョージ・アームストロング・カスター将軍はラコタとその同盟の主要宿営地を発見した。1876年6月25日、リトルビッグホーンの戦いで、本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊が、戦術的な利点があり数的にも上回ったインディアンに全滅させられた。インディアンはクレイジー・ホースに率いられ、シッティング・ブルの勝利の予言によって鼓舞されていた。 |
2045212#6 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | その後の1890年、サウスダコタ州ウンデット・ニーの北部ラコタ居留地でゴーストダンスの儀式の際に、アメリカ軍はラコタの武装解除を試みた。このときに銃撃が起こり、兵士たちはおよそ100名のインディアンを殺した(ウンデット・ニーの虐殺)。死亡した約25名の兵士は友軍の銃撃で死んだ可能性がある。これが表だったインディアンとの紛争の最後のものになった。
社会改革者たちは居留地に居るインディアンが個人として土地を所有できるようにするという解決策をとることにした。1887年、ドーズ法によってインディアンの土地を分割し、1家族の一人あたり160エーカー (0.65 km2) の土地を与える提案を行った。このような割り当て土地はその後25年間連邦政府から委託され、その後は所有者が全的な権利(売却や抵当入れも可能)を得て、完全な市民権も獲得した。しかしこのようにして手に入れた土地は開拓者に売りに出された。この政策は、インディアンが部族固有の土地のほぼ半分を売却したことになり、インディアンにとっては損失になった。また部族間の社会的組織の大半も破壊され、生き残った先住民としての伝統的な文化も混乱した。ドーズ法はインディアンをアメリカの本流と一体化させることを目指したものであり、大半は同化してアメリカ社会の中に吸収され、数多いアメリカ人の家庭の中にインディアンの血を残した。同化を拒んだ者たちは居留地で貧困に喘ぎ、連邦政府から食料、薬および教育などの支援を受けた。 |
2045212#7 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1934年のインディアン再組織化法によってアメリカ合衆国の政策が逆転し、居留地の部族とその生活様式を保護するようになった。 |
2045212#8 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1865年から1913年頃までの間に、アメリカ合衆国は世界でも先進的な工業国に成長した。土地と労働力が豊富にあり、気候が多様で、運河、川および海岸水域など航行可能な水域があることで勃興する工業経済の交通需要を満たし、さらに天然資源が豊富なことにより、安価なエネルギー、迅速な輸送を可能にし、また資本が潤沢に使えたことで、第二次産業革命を強力に推進できた。 |
2045212#9 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 「鉄のある所に石炭有り。」物の生産は手工業から工場生産に移り、生産のための組織、協調関係および規模が拡大して、さらには技術の進歩や輸送機関の発展が拍車を掛けた。鉄道が西部を開き、誰もいなかった所に農場、町や市場ができた。最初の大陸横断鉄道は国家のことを優先する事業家たちによって、イギリスの金を使い、アイルランド人や中国人の労働力で建設され、以前は僻遠の地だった所への旅を可能にした。鉄道の建設で、資本、貸付および農夫になろうという者に大きな機会が生まれた。
製鉄や製鋼においてはベッセマー法や平炉のような新技術が化学など他の科学分野での類似した革新と組合せされ生産性を著しく上げた。電報や電話など新しい通信手段は管理者たちが遠距離を隔てても協調できるようにした。ヘンリー・フォードが始めた移動する組み立てラインやフレデリック・ウィンスロー・テイラーの科学的管理法など、労働とその組織の編成にも大きな革新が起こった。 |
2045212#10 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | この時代に要求された大企業の財務を裏付けるために、持株会社が現れ、事業組織の支配的形態になった。法人はトラストを結んで拡大し、競合する会社を一つにしてモノポリと呼ばれる形態も出現した。高関税が外国との競合からアメリカの工場と労働者を守り、連邦政府による鉄道への助成金が投資家、農夫および鉄道労働者を富ませ、数多い町や都市を創った。政府のあらゆる部局は概して労働者が組合を作ったり、ストライキをやることを止めるように動いた。
集合的に「泥棒男爵」と呼ばれたアンドリュー・カーネギー、ジョン・ロックフェラーおよびジェイ・グールドのような大工業資本家が大きな富と力を蓄えた。富を蓄積するための冷酷非情な競争の中で、古いスタイルの職人たちの熟練労働は、給料の良い熟練労働者や技師に道を譲り、国全体が技術の基盤に凭りかかった。一方、着実な移民の流入により、特に鉱業や製造業で安い労働力の有用性が高まった。 |
2045212#11 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 「金ぴか時代」は1873年恐慌の後に第二次産業革命の新しく工業化経済の表面に浮かび出たアメリカ社会のほんの一握りの者たちによって享受された。それは劇的な社会変動を演出した富の移行の時代に加速された。初めて超富豪階級である「産業の主役」すなわち「泥棒男爵」を生み出し、その事業、社会および家族の結びつきによるネットワークが、明確に定義された境界のあるアングロサクソンとプロテスタントが大半である社交界を支配した。「金ぴか時代」という言葉は1873年に出版されたマーク・トウェインとチャールズ・ダドリー・ワーナーの著作『金ぴか時代:今日の話』で使われたのが初めであり、「金めっき」とゴールデンエージの皮肉な違いを表していた。 |
2045212#12 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | レコンストラクションが終わり、当座の政治的な問題が少なくなった中で、1880年アメリカ合衆国大統領選挙はこれまでに無い静かなものになった。共和党候補者ジェームズ・ガーフィールドが当選したが、就任してから数ヶ月後には恨みを抱いた公職追求者チャールズ・ジトーに銃で撃たれた。大統領は2ヶ月後に死亡し、副大統領のチェスター・A・アーサーが後継者になった。 |
2045212#13 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 金ぴか時代の政治は驚くほど堕落していたが、それにも拘わらず選挙民は熱心であり、1872年から1892年の期間の投票率は高かった。大きな問題が無いということは、選挙の結果を決めるのが候補者の個性であることを意味した。1884年アメリカ合衆国大統領選挙は、共和党のジェイムズ・G・ブレインと民主党のグロバー・クリーブランドの間で醜い泥仕合となり、クリーブランドが勝利して第22代大統領になった。 |
2045212#14 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 北東部のまとまりのある支配階級が「アメリカ・ルネッサンス」を宣言する自信を示し、この時代を特徴付ける新しい公的施設の建設ラッシュで特徴付けられた。これには病院、博物館、学校、オペラハウス、公共図書館、交響楽団があり、1893年のシカゴ万国博覧会の後は、ボザール建築様式という言葉で表される建築が隆盛した。 |
2045212#15 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 金ぴか時代で重要なことは劇的な教育の変化、移民の同化、宗教運動およびウィリアム・ランドルフ・ハーストやジョーゼフ・ピューリツァーを代表とする新しい全国紙の巨大帝国が築かれたことだった。 |
2045212#16 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 都市化(都市の急成長)は工業化(工場と鉄道の成長)や農業の拡大と歩調を合わせた。都市の急成長でヨーロッパ、フランス系カナダ人および中国人の莫大な移民も可能になった。 |
2045212#17 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1840年から1920年の間に、前例になく多様な移民の波がアメリカ合衆国に到着し、総数は約3,700万人に上った。彼らは様々な地域から来ていた。ドイツ人600万人、アイルランド人450万人、イタリア人475万人、イングランド、スコットランドおよびウェールズ合わせて420万人、オーストリア=ハンガリー帝国から420万人、スカンディナヴィアから230万人、ロシア人330万人(大半がユダヤ人、およびポーランド人とリトアニア人カトリック教徒)だった。大半の者はニューヨーク港を通って入国し、1892年からはエリス島の移民ステーションからとなったが、様々な民族集団が異なる場所に入った。ニューヨークなど東海岸の大都市はユダヤ人、アイルランド人およびイタリア人が多く固まり、ドイツや中央ヨーロッパの出身者は中西部に移動して工業や鉱業で職を得た。同時に100万人のフランス系カナダ人がカナダからニューイングランドへ移民した。
移民は貧窮や宗教的脅威によってその母国から押し出され、また仕事の機会や親族との繋がりでアメリカに惹き付けられた。彼らは経済的機会を見出し(安定した工場労働者あるいは耕作可能な農地での農業という形で)、あるいはアイルランドのジャガイモ飢饉のような危機から逃げて来ていた。宗教あるいは政治的迫害から逃れてきた者も多かった。特に19世紀後半ではザクセン州(ドイツ)からの保守的ルーテル教会員や、ロシアとオーストリア=ハンガリー帝国からのユダヤ人が顕著だった。政治的な抑圧や徴兵制度も、アメリカ合衆国でのより良い生活を求めた大量移民の理由になっていた。
移民の大半が歓迎された一方でアジアからの移民はそうではなかった。鉄道建設のために多くの中国人が西海岸に到着したが、ヨーロッパからの移民とは異なり、全く異なる文化の一部と見られた。カリフォルニア州など西部で激しい反中国人暴動が起こった後で、連邦政府は1882年に中国人排除法を成立させた。1907年の非公式合意により、紳士協定で日本人の移民も止められた(排日)。 |
2045212#18 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 一時的にアメリカ合衆国に留まり母国に戻る移民もいたが、そういう者は比較的羽振りが良くなるような蓄えができていた。しかし、大半の者はその母国を出たまま、新世界でより良い生活を得られることを期待してアメリカ合衆国に留まった。このときの自由と資産形成の願望が「アメリカン・ドリーム」という有名な言葉で表された。 |
2045212#19 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1870年代末からアフリカ系アメリカ人はレコンストラクションの間に得ていた多くの公民権を失い、次第に人種差別を受けるようになった。リンチや人種暴動など差別主義者による暴力が増し、南部州におけるアフリカ系アメリカ人の生活水準が著しく後退した。1877年妥協の後で成立したジム・クロウ法、およびクー・クラックス・クランの勃興が社会不安の重要な要因になった。1879年には既に中西部に向けての脱出を決心した者が多く、第一次世界大戦前に始まった大移住の間にこの動きが激しくなった。顔を黒く塗った白人によるミンストレル・ショーのような演し物はステレオタイプの人種差別主義者を再現した(有名な俳優としては、サム・ルーカス(1850年-1916年)がおり、ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』の戯曲でアンクル・トムの役を演じた最初の黒人だった)。 |
2045212#20 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1896年、合衆国最高裁判所は「プレッシー対ファーガソン事件」判決で、人種分離と「分離すれども平等」原理を支持して、アメリカ合衆国憲法修正第14条と同第15条を実質的に無効にした。 |
2045212#21 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | D・W・グリフィスの1915年の映画『國民の創生』はクー・クラックス・クランの2度目の勃興を世に広め、「科学的人種差別」理論が以前の差別主義者の偏見や白人至上主義の提唱者に新しく正当性を与えた。19世紀に白人が他の全てに対して優れているという概念が科学的思考の主流になった。かくして素人の人類学者かつ優生学者で、ニューヨーク動物学協会の会長であるマディソン・グラントは、1906年にニューヨーク市のブロンクス動物園でコンゴ・ピグミー族のオタ・ベンガを猿やその他の動物と共に展示した。グラントの命令で動物園の支配人はオタ・ベンガをオランウータンと同じ檻に入れて「失われた環」と表示し、進化論の中でオタ・ベンガのようなアフリカ人はヨーロッパ人よりも猿に近いという仮説を演出した。 |
2045212#22 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 19世紀アメリカ合衆国の農業はその著しい発展があったにも拘わらず、農夫たちは繰り返される困難な時期を経験していた。幾つかの基本的要素として、土地の疲弊、自然災害、自給自足率の減退、および連邦政府による適切な法的保護と援助の欠如があった。しかし、最も大きな要素は生産過剰だった。 |
2045212#23 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 単位面積あたり収量を大きく増加させた農業機械の改良と共に、鉄道の恩恵と平原インディアンを居留地に押し込むことで西部の開拓用地が開かれ、耕作面積は19世紀後半で飛躍的に拡大した。カナダ、アルゼンチンおよびオーストラリアのような大国で同様な農業用地の拡大が進み、過剰生産とアメリカ産品の多くが売られていた国際市場での低価格という問題を生んだ。 |
2045212#24 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 開拓者たちが西部に進めば進むほど、その産品を市場に送り出すためには独占的鉄道への依存率が上がった。同時に農夫たちは工業生産品に高い代金を払わされた。これは東部の工業資本家に支えられた連邦政府の保護関税が長く維持されたためだった。時の経過とともに中西部や西部の農夫はその土地の抵当権を持っている銀行に大きな借金を背負うようになった。 |
2045212#25 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 南部ではアメリカ連合国の没落で農業習慣にも大きな変化が起こった。最も重要なことは小作農が種や生活必需品と引き換えに土地所有者に収穫品の半分を渡すというシェアクロッピングだった。推計で南部のアフリカ系アメリカ人農夫の80%、および白人農夫の40%は南北戦争後のこの衰弱していく仕組みの下で生活した。シェアクロッパーの大半は借金の循環に閉じ込められ、そこから唯一逃げ出す手段は収量を上げることだった。このことは綿花やタバコの生産過剰に繋がり(販売価格の低下と収入の減少に繋がった)、土地は疲弊し、土地所有者も小作人も貧乏になる者が多かった。
一般的な農業問題に対処しようとした最初の組織的な動きが農民共済組合だった。1867年にアメリカ合衆国農務省職員によって始められたこの組合は、当初大半の農家が経験していた孤立化に対抗する社会運動になった。女性の参加が積極的に奨励された。1873年恐慌で加速された組合運動は2万の支部と150万人の組合員数を誇るようになった。 |
2045212#26 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 農民共済組合はその大半は結局失敗したものの、独自の市場、店舗、加工工場および協同組合を設立した。また1870年代には幾らかの政治的成功も収めた。幾つかの州は農民共済組合法を成立させ、鉄道と倉庫の料金を制限した。 |
2045212#27 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1880年までに農民共済組合運動は衰退し始め農夫同盟に置き換えられた。1890年までにこの同盟はニューヨーク州からカリフォルニア州まで約150万人の会員を集めた。これと並行してアフリカ系アメリカ人の組織である有色人農夫全国同盟は100万人以上の会員数になった。 |
2045212#28 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 農夫同盟はその開始時点から精巧な経済プログラムを持った政治的組織だった。初期の政治綱領に拠れば、その目的は「アメリカの農夫を階級的立法や忍び寄る集中資本から保護するために団結させる」ことだった。そのプログラムは鉄道を完全に国有化できなければ規制し、借金を返し易くするためにインフレを助長し、関税を下げ、政府が所有する倉庫や低料金の賃貸施設を設立することも要求した。これらはオカラ要求と呼ばれた。
1880年代後半、一連の旱魃が西部を襲った。4年間でカンザス州の西部は人口の半分を失った。事態をさらに悪くしたのは1890年のマッキンリー関税であり、これまでになく高い関税だった。これが農機具の価格を上げてアメリカの農夫にとって有害となった。 |
2045212#29 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1890年までに、農民の困窮の程度はこれにまでなく高くなった。著名な人民主義(Populism)著作家で扇動者のは農夫たちに「トウモロコシの収量を下げ大騒ぎする」必要性を説いた。農夫同盟は南部では同調的な民主党と、西部では小さな第3の政党と協力し、政治的な力を求めた。これらの要素から人民の党 (Populists)と呼ばれる新しい政党が創られた。1892年の選挙ではこの新党と南部および西部の州政府の支配勢力との連衡が生じ、アメリカ合衆国議会の上院と下院に少なからぬ議員を送り出した。1892年に農夫同盟の最初の大会がネブラスカ州オマハで開かれ、集まった農夫、労働者および社会改革組織者の代表たちは工業と商業のトラストで金銭ずくになって絶望的に腐敗したと見るアメリカ合衆国の政治に一石を投じることを決めた。 |
2045212#30 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 人民の党の実際的な綱領は銀の無制限鋳造を含み、土地、輸送および財務の問題に焦点を当てた。1892年の選挙では人民の党が西部と南部でかなりの力を見せ、その大統領候補者は100万票以上を獲得した。しかし間もなく全ての問題に影を投げたのは金本位制を主張するものに対して銀本位を主張する通貨問題だった。西部と南部の農夫代表者は銀の無制限鋳造に復帰することを要求した。その問題が通貨量の不足から来ていると確信した農夫同盟は、通貨量を増やすことで間接的に農業生産者価格を上げ、工場労働者の賃金も上げ、インフレになれば借金が払いやすくなると主張した。 |
2045212#31 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 一方保守派や金融筋は、そのような政策では惨事になると考え、インフレが一度始まれば止められなくなると主張した。当時の最も重要な金融商品である鉄道債は金で支払うことができた。鉄道の運賃や輸送費が銀貨で半値になれば、鉄道は数週間で破産し、数十万人が失職し、工業経済を破壊する。金本位制のみが経済の安定を支えると主張した。 |
2045212#32 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1893年の金融恐慌はこの議論の緊張関係を高めた。南部と中西部で銀行の破綻が続いた。失業者が溢れ、農業生産物価格は急落した。この危機にクリーブランド大統領の解決力の無さが合わさり、民主党が分解寸前になった。 |
2045212#33 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 銀本位と自由貿易を支持した民主党は1896年の大統領選挙が近付いた時に人民の党運動の残党を吸収した。その年の民主党大会ではアメリカ合衆国の政治史の中でも最も有名な演説の一つが行われた。ネブラスカ州出身の若き銀本位制提唱者、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは「金の十字架に人類を磔にする」べきではないと訴え、民主党の候補者指名を勝ち取った。人民の党の残党もブライアンの動きの中で発言力を維持しようと期待してブライアンを支持した。ブライアンはカリフォルニア州とオレゴン州を除く西部と南部の全州を制したにも拘わらず、「フルコースの食事」(A Full Dinner Pail)を選挙スローガンにした共和党候補者ウィリアム・マッキンリーに敗れた。マッキンリーは人口が多く工業化の進んだ北部と東部を地盤にしていた。 |
2045212#34 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 翌年、金融事情は企業が自信を取り戻したこともあって改善を始めた。大半の商取引が金の袋ではなく銀行券で取り扱われることを認識していなかった銀本位制主張者は、新しい景気がユーコンでの金発見によるものと考えた。1898年、米西戦争が国民の注意を引き付け、さらに人民の党の主張からは遠ざかった。しかしこの運動が潰えたとしてもその概念は残った。人民の党が一旦この概念を支持すると、アメリカの政治家の大半が拒否する汚点になった。わずか数年後に、この汚点が忘れられた頃、アメリカ合衆国上院の直接選挙のような人民の党の主張する改革が現実になった。 |
2045212#35 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 現在のアメリカ合衆国工場労働者の生活に比べ、19世紀アメリカ工場労働者の生活は容易くなかった。賃金はヨーロッパと比べて2倍だったが、労働条件は過酷でゆとりが無かった。1873年と1893年に国内を恐慌が覆い、賃金を下げ、高率の失業率と不完全雇用率を生んだ。 |
2045212#36 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 同時に全国の生産性を上げた技術の改良が継続的に熟練労働の需要を下げ、未熟練労働者の需要を増した。1880年から1910年までに前例の無いような1,800万人の移民がアメリカ合衆国に入り、仕事を求めたので、未熟練労働者の予備軍は常に成長を続けた。 |
2045212#37 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1874年以前はこの国で事実上労働に関する規制が無かった。この年、マサチューセッツ州が女性と子供の工場労働者は1日10時間に労働時間を制限する最初の法律を通した。しかし、この件に連邦政府が積極的に関わったのは1930年代になってからだった。その時代まで労働条件は州や自治体の当局に任され、富裕な工業資本家に対するように労働者に対応できる役人はほとんど居なかった。 |
2045212#38 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 19世紀後半を支配し富と権力を巨大に集中させた「クローニー・キャピタリズム」(縁故資本主義)は、出来上がった制度に反抗した人々に対して断固たる対応を行った、人の言いなりになる司法官によって後押しされた。裁判官は当時行き渡っていた哲学に単に従っているだけだった。ジョン・ロックフェラーは、「大企業の成長は単に最も適応できるものが生き残ることである」と言ったと報告されている。「社会ダーウィン主義」として知られるこの考え方は、事業を規制しようという如何なる試みも種の自然進化を遅らせるだけのものであると主張する多くの利己的な者に支持された。 |
2045212#39 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | この産業主義の犠牲者に対する無関心によって生じたコストは大きかった。何百万もの労働者の生活と労働条件はお粗末なものであり、生涯貧乏から逃れる望みは僅かなものだった。移民労働者は混み合い不潔な賃貸住宅に住んでいた。工業化でアメリカの労働者の貧窮度を固定してしまっていることは、「百万長者の宮殿と労働者の小屋の対照」と言ったアンドリュー・カーネギーのような企業指導者ですら認めていた。カーネギーのその高貴な感覚にも拘わらず、その工場での労働条件は他より良いわけではなかった。1900年には既にアメリカ合衆国の労働に関わる死亡率は世界の工業化されたどの国よりも高くなっていた。工場労働者の大半は1日10時間(鉄鋼産業では12時間)働き、生活に必要な賃金の20%から40%少ないものしか得られなかった。この状況は1870年から1900年の間に2倍になっていた児童労働者の場合はさらに悪いものだった。 |
2045212#40 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 労働者を全国的な組織に組み入れようという最初の大きな動きは1869年のナイツ・オブ・レーバーのノーブル・オーダーのものだった。これは元々フィラデルフィアの衣料労働者によって組織化された秘密の儀礼的組織だったものが、アフリカ系アメリカ人、女性および農夫などあらゆる労働者に開かれた。ナイツ・オブ・レーバーは1885年のストライキで偉大な鉄道貴族ジェイ・グールドを屈服させた時までは緩り成長していた。この時から1年以内に新たに50万人が加盟した。 |
2045212#41 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | しかし、ナイツ・オブ・レーバーは間もなく衰退を始め、労働運動におけるその地位は次第にアメリカ労働総同盟によって置き換えられていった。葉巻製造会社の元組合役員だったサミュエル・ゴンパーズが指導したアメリカ労働総同盟は、全ての労働者に開かれるよりも熟練労働者に焦点を当てた。ゴンパーズの目的は「純粋で単純」であり、賃金を増やし、労働時間を減らし、労働環境を改善することだった。このようにして初期の労働指導者たちが信奉した社会主義的見解から距離を置かせることに成功した。アメリカ労働総同盟は国内で次第に認められた組織にはなっていったが、未熟練労働者については何もできなかった。 |
2045212#42 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 未熟練労働者の目標というものは企業経営者の認めたがらないものであり、アメリカ合衆国の歴史の中でも最も激しい労働争議の幾つかに繋がった。そのうちの最初のものが1877年の鉄道大ストライキであり、国中の鉄道労働者が経営者の賃金10%カットに反応してストライキを行った。スト破りを行ったことでボルティモア、シカゴ、ピッツバーグ、バッファロー、およびサンフランシスコなど幾つかの都市で流血を伴う暴動に繋がった。 |
2045212#43 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1886年、シカゴのマコーミック収穫機会社でのストライキ中に、警官に撃たれて2人の労働者が死んだことに対する抗議を呼びかけた集会を追い散らそうとした警官に誰かが爆弾を投げた。これはヘイマーケット暴動と呼ばれた。ヘイマーケットでは11人が死亡し、数多くの者が負傷した。 |
2045212#44 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 次に1892年に、ペンシルベニア州ホームステッドのカーネギーの製鋼所で暴動が起こった。製鉄、製鋼および製錫労働者の合同組織による激しいストライキを破るために会社側が雇ったピンカートン探偵社の300人が銃で撃たれ、10人が死亡した。その結果、ストライキに参加している労働者を鎮めるために州兵の出動が要請された。非組合労働者が雇用され、ストライキは破られた。ホームステッド工場は1937年まで労働組合を完全に禁止した。 |
2045212#45 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | その2年後、シカゴ郊外のプルマン・パレス自動車会社が賃金をカットしたことでストライキが始まり、アメリカ鉄道組合の支援もあって、間もなく全国の鉄道産業が止まった。この時代の常としてグロバー・クリーブランド大統領が指導する連邦政府は経営側についた。アメリカ合衆国司法長官のリチャード・オルニーは、自身が元鉄道会社の弁護士であり、鉄道を運行させる目的で3,000人以上の労働者を代理雇用させた。これに続いて連邦裁判所が列車の運行を組合が妨害することに対して差し止め命令を出した。労働者たちが鉄道会社や連邦政府の動きに対して屈服を拒んだとき、クリーブランドは再度連邦軍を派遣した。最後はストライキが破られた。
当時最も戦闘的な労働者階級の組織は世界産業労働組合だった。西部の鉱業地帯でより良い労働条件を求めて戦っている組合が集まって結成されたものであり、通常「ウォブリーズ」と呼ばれたこの組合は、その扇動的かる革命的な言葉遣いから特別の注目を浴びた。ウォブリーズは公然と階級闘争を呼びかけ、1912年にマサチューセッツ州ローレンスでの繊維産業ストライキ(通常「パンと薔薇」のストライキと呼ばれる)で艱難辛苦した後に勝利を収めてから多くの支持者を集めた。 |
2045212#46 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1896年アメリカ合衆国大統領選挙でウィリアム・マッキンリーが地滑り的勝利を収めた。マッキンリーは6年前の1890年にマッキンリー関税を成立させて国民の注目を浴びるようになり、1897年に高率関税法案を通してから急速な経済成長と繁栄の時代が到来し、国民の自信が回復した。 |
2045212#47 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | スペインはかつて広大な植民地帝国を支配していたが、19世紀後半までにキューバ、プエルトリコ、フィリピンとアフリカに幾らかの植民地を残すだけになっていた。キューバは1870年代以来反乱状態にあり、アメリカの新聞、特にウィリアム・ランドルフ・ハーストやジョーゼフ・ピューリッツァーの新聞は、キューバにおけるスペインの専政について激烈な記事を掲載していた。アメリカの干渉を求める声が上がっていた。1890年、アメリカ合衆国本土のフロンティア消滅が公式に宣言され、その都市のウンデッドニーの虐殺事件でインディアン戦争も終わりを告げた。その結果マニフェスト・デスティニーの時代が終わり、当時のヨーロッパ列強はアフリカやアジアに植民地を設けていくことに汲々としていたので、アメリカも海外領土を獲得すべきと考える者が多かった。しかし、帝国主義的外交政策はアメリカの原則を外れると主張する者も居た。 |
2045212#48 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1898年2月15日、アメリカ海軍の戦艦USS"メイン"がハバナ港で爆発した。爆発の原因ははっきり分からなかったが、多くのアメリカ人はスペインの機雷のせいと信じ込み、ハーストやピューリッツァーによるイエロー・ジャーナリズムで煽り立てられた。マッキンリー大統領は事態を沈静化させようとしたが、その海軍次官補セオドア・ルーズベルトは反対の立場を採り、大統領は「チョコレートエクレアの背骨」を持ったと言った。アメリカがキューバの革命に干渉する準備を行う形で軍隊が急速に動員された。キューバを併合しようというのではなく、この島国の独立は保証されるという立場が明らかにされた。スペインはその国内事情に関する不当な干渉であり外交関係を難しくするものと考えた。4月25日に米西戦争の宣戦が布告された。 |
2045212#49 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | スペインは瞬く間にキューバとプエルトリコで敗北を喫し、セオドア・ルーズベルトのラフレンジャーズはプエルトリコで悪名を馳せた。一方ジョージ・デューイ海軍准将の艦隊は、やはり革命状態にあった遙か離れたフィリピンでスペイン艦隊を潰した。スペインが降伏して3ヶ月の戦争を終わらせ、キューバの独立を認めた。プエルトリコ、グアムおよびフィリピンはアメリカ合衆国に割譲された。フィリピンでは1902年まで大衆に対する残酷な征服戦争が続けられた。 |
2045212#50 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | フィリピンやプエルトリコに対するアメリカ合衆国の資本投下は少なかったが、政治家の中にはラテンアメリカやアジア、特に中国との貿易を拡大するための戦略的前進基地になると期待する者もいた。しかしそうはならず、1903年以降のアメリカは新しい貿易ルートとしてパナマ運河に注意を向けた。米西戦争はかくして世界規模で指向するアメリカの外交政策を始めさせ、それが今日まで続いている。 |
2045212#51 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカ合衆国は1899年にスペインからフィリピン諸島を買収した。1898年にスペイン軍に対する蜂起を助けていたが、1899年にはアメリカ合衆国と反乱者の関係は気まずいものに変わった。アメリカ合衆国はフィリピン占領の最初の2年間で武装独立行動を抑圧したときに宗主国に近い役割になった。その後の抗争の間に4,234人の米兵が死んだが、おもに熱帯特有の病気に因るものだった。フィリピン人は戦闘で死んだ者がおよそ2万人と推計されている。市民の方の飢饉や病気による死者は不明だが、100万人、すなわちフィリピン人口の10%と推計する者もいる。彼らの大半は反乱軍にその規則を強制される中で、あるいは病気の蔓延を防止する中で殺された。 |
2045212#52 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカ合衆国による占領の間に英語が公式言語であることが宣言された。ただし、フィリピン人はスペイン語や、ビサヤ語、タガログ語、イロカノ語など現地の言葉を使っていた。アメリカ陸軍輸送船USS"トマス"で500人以上のアメリカ人教師が派遣され教育体系の設定に取り掛かった。またローマ・カトリックは国教から外され、バチカンとの協議の後で大規模な教会領地が買収され民間に分配された。 |
2045212#53 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1914年フィリピン駐在のアメリカ上級役人ディーン・C・ウースター(駐在期間1901年-1913年)が、アメリカはフィリピンの最も野蛮な部族を征圧しただけでなく、彼らと最も有効な関係を作り上げたと豪語した。 |
2045212#54 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1916年、連邦議会はフィリピンに1945年までに独立させることを保証した。 |
2045212#55 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカ合衆国は米西戦争を通じて初めてキューバと関わるようになった。1901年、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項を成立させ、キューバ政府の財政的自由度に厳しい制限を押しつけ、グアンタナモ湾に海軍基地を設け、キューバの内情に干渉する権利を保持した。またキューバ憲法にプラット修正条項を書き込むよう強制した。 |
2045212#56 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカ合衆国は大西洋と太平洋を繋ぐパナマを横切る運河の建設に興味を抱くようになった。1903年セオドア・ルーズベルト大統領はパナマ運河を建設し支配するために、コロンビアからのパナマの独立を支持した。 |
2045212#57 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1904年、セオドア・ルーズベルトはモンロー・ドクトリンに対するその「ルーズベルト命題」を発表し、西半球におけるラテンアメリカ諸国が民主主義と白人アングロ・サクソン文明の恩恵をもたらすときに無能で不安定である場合はアメリカ合衆国が干渉すると明らかにした。このいわゆる「良き隣人」政策はその後の30年間にラテンアメリカやカリブ海での数多い干渉の口実になり、その大半はアメリカの実業界の利益を守るためだった。 |
2045212#58 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカは大西洋と太平洋を繋ぐ運河の代替ルートとしての可能性からニカラグアにも興味を持つようになった。1909年、ニカラグア大統領ホセ・サントス・ゼラヤが、アメリカに支援された反乱軍の勝利後に辞任した。これに続いて1912年から1933年までのアメリカによるニカラグア占領が行われた。 |
2045212#59 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | アメリカ合衆国は1915年にハイチを軍事占領し、指導者の暴徒による処刑が行われたが、ドイツによる諸島侵略の可能性に直面してアメリカによる地域の支配強化として、大衆には正当化された。ドイツによる支配は幾らか現実味があった。ドイツは1914年までにハイチ経済の80%を支配した。主要鉄道はハンブルクの銀行家によって支配されていた。この国を政治的騒乱状態にしていた革命軍に資金を供給すらしていた。アメリカ軍による征服で19年間(1915年-1934年)のハイチ占領となった。 |
2045212#60 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | メキシコが長期間の無政府状態になり、1910年に内戦が始まったときにアメリカ合衆国はこの国にも干渉を始めた。1914年4月、タンピコ事件に続いてアメリカ合衆国はメキシコのベラクルス港を占領した。その理由はウッドロウ・ウィルソン大統領がメキシコの独裁者ビクトリアーノ・ウエルタを排除しようとしたことだった。 |
2045212#61 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1916年、アメリカ合衆国はドミニカ共和国を占領した。 |
2045212#62 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1916年3月、パンチョ・ビリャが1,500人のメキシコ人を引き連れ、国境を越えてニューメキシコ州コロンバスを攻撃し、アメリカ軍騎兵分遣隊を攻撃し、100頭の馬やラバを捕獲し、町を焼き、市民17人を殺した。ウィルソン大統領はジョン・パーシング将軍の指揮で12,000名の軍隊を派遣し、ビラを追求させた。この遠征はその目的を果たせずに失敗し、1917年1月に引き上げた。 |
2045212#63 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 1900年アメリカ合衆国大統領選挙の結果、特に外交政策についてマッキンリー政権に判断させる機会を与えた。フィラデルフィアで開催された共和党大会はスペインとの戦争で勝利したことへの祝意を表し、繁栄の再現と門戸開放政策によって新しい市場を開拓することを表明した。1900年の選挙はほとんど1896年の再現となったが、新しい問題として帝国主義が付け加えられた(ハワイは1898年に併合されていた)。ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは再度自由銀を掲げて選挙運動を行ったが、2度目の敗北を喫した。 |
2045212#64 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | マッキンリー大統領は2期目の始まりも高い人気を誇っていたが、長続きはしなかった。1901年9月、ニューヨーク州バッファローの博覧会に出席しているときに、アナーキストのレオン・チョルゴスに銃で撃たれた。マッキンリーは暗殺されたアメリカ合衆国大統領として3人目だった。3人とも南北戦争の後の40年足らずの間の出来事だった。副大統領だったセオドア・ルーズベルトが大統領職を嗣いだ。 |
2045212#65 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | ルーズベルトの就任は国内的にも国際事情においてもアメリカの政治に新しい時代を画した。大陸はアメリカ生まれではない人々で溢れ、フロンティアは消滅した。国の政治基盤は外国との戦争および内戦さらには景気の浮き沈みの試練に耐えた。農業、鉱業および工業では大きな進展を経験した。しかし、大企業の影響力はかつてないくらいしっかりと浸透していた。1883年の公務員改革法(あるいはペンドルトン法)で、連邦職員の大半は能力主義で評価され、いわゆる「猟官制度」は終わりを告げ、連邦政府の専門職化と合理化を認めた。しかし地方の自治対政府は腐敗した政治家、政治マシーンおよび「政治ボス」の手に残されたままだった。多くの州、郡および自治体では猟官制度が長生きし、タマニーホールの組織に至ってはニューヨーク市が公務員制度を改革した1930年代まで残った。イリノイ州はフランク・ローデンの元で1917年にその官僚機構を改革したがシカゴは1970年代まで利益供与制度を引き摺った。 |
2045212#66 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | これら政治の欠陥に対して、1890年代に「進歩主義」と呼ばれる時代の精神が起こり、1917年にアメリカ合衆国が第一次世界大戦に参入するまで続いた。 |
2045212#67 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 都会の政治ボスや腐敗した「泥棒男爵」に対する改革運動として、多くの自称進歩主義が現れた。事業の実効ある規制、復活された公務員の関与、および国の福祉と利益を確かなものにする政府管掌範囲の拡大に関する要求が増えた。政治、哲学、学会あるいは文学の世界のほとんどあらゆる著名人物が少なくとも一部は改革運動に関わった。 |
2045212#68 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | トラスト、大型融資、不潔な食料および鉄道の虐待慣習を扱う記事が、日刊紙や"マクルーアズ"や"コリアーズ"のような人気有る雑誌に現れ始めた。スタンダードオイルのトラストを糾弾したジャーナリストのイーダ・ターベルのような著者はマクレイカー(醜聞を暴く人)と呼ばれるようになった。作家アプトン・シンクレアはその小説『ザ・ジャングル』でシカゴの食肉加工場の不衛生さや国内食肉供給ルートにおける牛肉トラストの一端を暴いた。 |
2045212#69 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 進歩主義時代の作家の強い衝撃は、大衆間の特定部の目標を鼓舞し、特に大労働組合と大資本家に挟まれた中産階級が政治的行動を採るように駆り立てた。多くの州では人々が生活し働く条件を改善する法を制定した。ジェーン・アダムズのような著名社会批評家からの推奨で、児童労働法が強化され、年齢制限を上げ、労働時間を短縮し、夜間労働を制限し、学校への出席を要求する新しい法が採択された。 |
2045212#70 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 20世紀の初期までに、大都市の大半や州の半分以上で公共事業について1日8時間労働の制度を作っていた。これと同じく重要なことは労働者災害補償法であり、雇用者は被雇用者が労働中に受けた傷について法的に責任があることになった。新しい歳入法も採用され、相続財産に課税することで当時の連邦所得税の基盤を作った。 |
2045212#71 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | ルーズベルトは「公平な取引」を要求し、反トラスト法の執行に連邦の監督権を強める政策を始めた。後に鉄道に対する政府監督権の拡大で主要な規制法の成立を促進した。この法の一つでは公開される送料を合法的標準に合わせ、荷主はリベートについても鉄道会社と同等に責任があることとした。 |
2045212#72 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | ルーズベルトは1904年アメリカ合衆国大統領選挙で信任された。選挙人選挙で圧倒的に勝利したことで大胆になったルーズベルトはさらに徹底的な鉄道規制を要求し、1906年6月、議会はヘップバーン法を成立させた。これにより州際通商委員会に料金を規制する現実的権限を与え、委員会の管轄範囲を拡げ、鉄道会社に蒸気船運航会社や石炭会社との連結利益を放棄させた。この時代に大きな石炭ストライキが起こり、多くのアメリカ人が冬季に凍え死ぬ可能性が本当に生じた。ルーズベルトは鉱山所有者をホワイトハウスに招集し、ストライキを行っている労働者との合意ができなければ彼らの会社を国有化すると脅した(ただし国有化は違憲だった)。 |
2045212#73 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 一方、連邦議会は新しく商務労働省を創設し、長官を内閣に加えた。新しい省の1部局が大企業集団の内情に関する調査権限を持ち、1907年にはアメリカ砂糖精製会社が多額の輸入税について虚偽申告したことを見付けた。その後の訴訟で400万ドル以上を回収し、会社役員数人を有罪にした。 |
2045212#74 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | 国の天然資源や美しい景観の保存がルーズベルト時代でも特筆に値する。環境保全、開墾および灌漑については1901年の議会向け年間教書でその遠大で統合された計画を要求していた。前大統領のマッキンリーが保護区や公園のために森林4,600万エーカー (188,000 km2) を保護したのに対し、ルーズベルトはさらに1億4,600万エーカー (592,000 km2) を追加し、森林火災を防ぐため、また裸になった土地に植林するための体系的行動を始めた。ルーズベルトはその友人のギフォード・ピンチョを森林監督官に指名し、公有地の新たな科学的管理を活性化させた。ルーズベルトは50カ所の生物保護区、5カ所の国立公園を新たに制定し、グランド・キャニオンのような国立記念地域を指定する制度を始めた。 |
2045212#75 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | ルーズベルトの任期は1908年アメリカ合衆国大統領選挙を迎えたときにその頂点に達していたが、それまでのどの大統領も2期を超えては務めないという伝統を破ることを望まなかった。その代わりにウィリアム・タフトを支持した。民主党側ではウィリアム・ジェニングス・ブライアンが3度目の立候補をしたが、なんとか南部を制するに留まった。元判事であるタフトはアメリカが支配したフィリピンの初代総督であり、パナマ運河の監督者でもあった。彼はそのドル外交を進展させた。 |
2045212#76 | アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918) | タフトはトラストに対する告発を続け、州際通商委員会の権限をさらに強化し、郵便貯金と郵便小包の制度を作り、公共事業を拡大し、アメリカ合衆国憲法の2つの修正条項成立を促進した。修正第16条は所得に関する連邦税を認め、1913年に批准された修正第17条は州議会によって選ばれていたアメリカ合衆国上院議員を一般選挙で選出することを義務付けた。 |
Subsets and Splits